Kathy's Diary

不定期でひそかにやってます。

『月曜日の友達』

阿部共実さんの『月曜日の友達』(全2巻)という漫画について。

ドキドキしながら読んだ。とくに1巻の3話目から4話目が好きだった。私は「思い出」の存在の意味を初めて知った。

読了して、他に必要とされることで生きてることを感じる人間になってみたかった、とそういう気持ちがわいた。(私はそういうふうに生きている人間ではない。)勝手に泣いていた。

2巻の7話目の最後の方のたたみかけるようなテンポに、そこから先の老いていくはやさも予感させる。

月野はたぶん離れてしまうのを知っているんだよな。

(おそらくこれから2人が体験するであろう、)忙殺は恐ろしい。大切なものも振り落としてしまう。

 

夏に会ったふたりの、うだる暑さに歪んだ顔が好き。あと水谷が紙を燃やすシーン。

「水谷は小さな雷にでも打たれたの」っていうさらっとしたセリフが好き。

自分の方に寄せようとするんじゃなくて、万物に照らされているというその拡がりもふくめて好きでいる、というその感じがいい。

あと夏生まれってはずみで言ったのを憶えてる感じとかが好き。(そのときはなんの応答もせず、というかんじなのに。)

フロム•ヘル

鬼太郎シーズン6を某チャンネルで見た。

悪心をおこして罪をおかした男が地獄に連れて行かれる話であった。描かれている地獄は罰としての地獄というより悪心を抱くという苦しみの心情風景のように感じられた。(創作の意図ではなく私の主観である。)それが本当に見ていて苦しかったので(声優も迫真だった。)半分くらいしか見てないので最後どうなったかはわからずじまいなのだが、故郷のような地獄だ、と思った。

悪心を抱くという時点でそれは罪である、ということを言う人もいる。だとしたら私は前科億千万になる。私が考えるには、悪心をそのまま実行に至らせない「理性」が大事なのだと思う。もしくは「忍耐」。

 

 

 

にしても猫娘プリキュア化しとる!砂かけばばあと子泣きじじいがレギュラーで?出てこんのはヴィジュアル面で外されたってことなのだろうか。シーズン7にもなるころには原形なくなってるんじゃなかろうか。もしくは完全原点回帰してるか。

靴と服について

 現在、弱療養中なのだがわりに回復に向かっていると思われる。数年前に買ったほとんど履かずじまいのいくつかのカッコイイ靴のことを思い出した。体調悪くなるとカッコイイ靴というのは履けなくなる。カッコイイというのは形(フォーム)がいいということで私は足の骨格が不細工なので、たいていツマサキがギュッと拘束される、でヒールありだと踵が隙間空く、なので中敷きカスタマイズと靴下微調節とあと歩いてるさなかでの足の指との折り合い?とか色々あるのでやっぱ万全でないといけんのよな。ちなみ私はピンヒールが履けない。慣れ、とも言うが私はガニマタであるのと、三角座りしたときに左膝が右より2センチくらい高くなるので体が歪んでいるか、左足が長いのかも知れない。

 服はいわゆるコーディネートを考えずに欲しい物を買ってしまうので、上下合わせられなくて数年寝かすことになる、とかザラである。最近ようやく合うようになってきた。(自然淘汰式コーディネートとでも言おうか。)

 そういえば仕事のとき、その職場のドレスコードで出勤してドレスコードで退勤するとかだった。エレベーターで社員の人と会うと私服がみな素敵だなァとか思っていた。(ドレスコードがない職場の場合だいたいTシャツ・Gンズとか着ていた。)基本仕事のプレッシャーとか環境の不穏さがものすごかったので、毎日自分の好きな服を着る、とかいう余裕を一寸でもゆるしてしまうとその日の不穏さに適応できないとかそういう考えだったため、なるべくどうでもいい格好をしないといけなかった。そんな風に生きてたなんてな。不憫だ。

 気付いたんだが自分が惹かれる服ってフォームが決まっているようだ。いったん手放しても新しく買った服がその体をなしていたりする。勝手に惹かれてしまう服って自分のモチーフのようなものなんだろうな。

隙あらば眠ろうとする身体

昔から「体が一定水準を達していない」という体感があった。身体がボソボソしているというか体の輪郭を保てないという感じ。

あえて滑稽な例えでいうと、バスに座っているとバスの座席に同化してしまうような。

起きていても身体が隙を見て眠ろうとする感じがある。

そんな風でいわゆるバウンディングが出来ないのであらゆる場面で支障が出るので原因はあるのかと調べていたのだがなかなか行き着かなかった。特殊な慢性疲労か?とか、内受容感覚とやらがおかしいのか?とか色々。

で、ホロスコープアスペクトの月と海王星コンジャンクションに思い当たった。おそらくこれが原因なんじゃなかろうか。

ちなみに私はこのアスペクトは3ハウスでおこっている。その辺の人の声に自動没入しがちだったりとかよくある。音楽とか小説とかを理解するには使えるのだが。持っていかれてしまうのだよ。

生きた人が見える

 

霊感が強い、と東洋占星でも西洋占星でも書かれてる。
で、ホロスコープでいうと3ハウスというコミュニケーションを意味するところに大天体が入っていて、その中の海王星霊性なんかを表すらしい。だから私、死人は見えんけど、生きた人に対して何か過剰に見えるというか感じるところがあるのだろうな、で合点がいった。
神社などに行って、なにか感じる…とか別段ないのだが、対人した時にだけなんか起こるものがある、という感じ。というか軽度の対人恐怖のきらいがあるのだが多分そのせいか。
シャウアプフの鱗粉乃愛泉使ってんのかな無意識で。

1983

今だから言うが、社会メディアのジェンダーレス、とかジェンダーフリーとかって打ち出し方に最初は自分の中に反発心があった。反発心というかもやもやしていたというか。

で、最近わかったのが、象徴としての「男性性」「女性性」が失われるんじゃないか、とどこかで恐れていたからなんじゃないか、とちょっと興味あったタロットの本を読んでて気づいた。でも原形がそう失われることってないよな、ってわかって落ち着いた。知らない間に自分が男性性女性性というものを愛していたということにも気づいた。自分自身が女性らしく生きる、とかそういうのとは別の話で。


成長期のある期間で(わりに長期間)性別コンフューズはあったが、「男性になりたい」と思ったことはなかった、そういえば。たぶん「女性になりたかった」けどなれなかった、ってことかもしれない。あらゆる理由で。ちょっと忘れてきてしまってはいるが。いまや何でもいいか、って感じになってきている。


ちなみに一説によると、ジェンダーへの疑問を強く投げかけたのは1983生まれの人たちなんだそうだよ。(前々から動きはあっただろうけど、より動いたのがってことだと思う。)あくまで一説によるとだけど。

ジェンダーというか認識の改革の火種?

ホロスコープ(勉強中)でいうところの「リリス 水瓶座」「土星 冥王星 合」が1983年生まれの人にあたるらしい。

読書週間『海辺のカフカ』村上春樹

海辺のカフカ』読了した。

去年、宿曜占星の本読んでたおかげですんなり読めた気がする。( 生きながらにして「業」とか「胎」を行き来する、 という感じととらえていた。)

私は15歳の頃は私が私であることが何より酷だったのだよな。 死ぬことより酷だった。だから死なない(死ねない) 気がしていた。

苦しみを説明できない間は( 事象をことばでならべたところでその苦しみを再現できない間は? )その苦しみを保持して生きていないといけない。 佐伯さんのところでそれを感じた。あの絵(を託すということ) は祈りのようなものかも知れない。

大島さんの「この世界において、 退屈でないものには人はすぐに飽きるし、 飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。 僕の人生には退屈する余裕はあっても、 飽きているような余裕はない。」という言葉が印象深かった。

 

<後の追記>

ナカタさんのところをちょっとまた読んだ。文庫上巻の175~ 176頁のところ(無意識とか深層)。あと256頁のところ( 怖がること、痛みを想像すること)が興味深い。 自分が過度に何かを怖がるときにはこの感覚を取り出したいとか思 った。

あと引率女教師の手紙のところ。いたたまれない。 ナカタさんの家庭(そうなる以前の)を想像すると、 自分の中の何かと焦点が合う。 私はそんな風に生きてきてはいないが。確と血? が反応してしまう。あと”「たてまえ」で生きている時代” とあったが、そうだよな。そういう時代からよくここ(現代) まで来たよな、と思った。後ろ髪を引かれながら人が自由になる。