Kathy's Diary

不定期でひそかにやってます。

村上春樹

自分が世界と均一なとき/世界を見失っており立てないとき/自分が世界に没入し
てるとき/
没入してるときは大抵雨が降っている。とけ込んでいると意識のみになって体がカ
ンモクになる。
10年前に、いわゆる読書体験だった『ねじまき鳥クロニクルの一章を再び読ん
だ。(没入した分だけ返して?くれる長編小説かとおもう。村上さんの長編の中で
一番影響あった。いっても他の長編はカフカノルウェーのしか読んでないが。短
編集だと『TVピープル』が好き)
10年前に読んだとき、初めて読んだのに既に知っているという感覚があった。と
いうか文章と自分の体が呼応しているみたいな。いったん文章を読んでそのあと現
実にそれをじわじわと溶かしていったりもした。(この小説と自分の中と世界が繋
がってるような感じだった。)
で、今読んで、10年前に触発されて浮上したものを10年間くらいで自分が生き
て経験で実証?したみたいな。潜在的に色んな解体の仕方を試していたのかも知れ
ない。ちなみに10年前に読んだ時も梅雨だった。湿気をバックグラウンドに読む
とよくわかる。『ねじまき鳥クロニクルは今の自分の人間観の地盤になってい
る、と気付いた。
10年前印象的だったところは
日蝕で死んでいく馬
クレタの痛み
・暗渠
・シナモン
・君には私を すことはできない
・アヒルのヒトたち
中尉の「死ねなかった」ということって、あとX年後には忘れ去られてしまうのだ
ろうか。
メイが「世の中の人ってすごおく真面目に働いてんのね」って言ってて、
実際、私は会社に居たとき、狂躁的善性のようなもので「すごおく真面目に」働い
ていた。自分はそれを正しいと信じているんだけど結局そこから離れたら徐々にそ
のときのことは忘れていった。一時的な集団的主観でしかなかったのかもしれな
い。
 
海辺のカフカ』読了した。
去年、宿曜占星の本読んでたおかげですんなり読めた気がする。(生きながらにし
て「業」とか「胎」を行き来する、という感じととらえていた。)
私は15歳の頃は私が私であることが何より酷だったのだよな。死ぬことより酷
だった。だから死なない(死ねない)気がしていた。
苦しみを説明できない間は(事象をことばでならべたところでその苦しみを再現で
きない間は?)その苦しみを保持して生きていないといけない。佐伯さんのところ
でそれを感じた。あの絵(を託すということ)は祈りのようなものかも知れない。
大島さんの「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きな
いものはだいたいにおいて退屈なものだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、
飽きているような余裕はない。」という言葉が印象深かった。
ナカタさんのところをちょっとまた読んだ。文庫上巻の175~176頁のところ
(無意識とか深層)。あと256頁のところ(怖がること、痛みを想像すること)
が興味深い。自分が過度に何かを怖がるときにはこの感覚を取り出したいとか思
た。あと引率女教師の手紙のところ。いたたまれない。ナカタさんの家庭(そうな
る以前の)を想像すると、自分の中の何かと焦点が合う。私はそんな風に生きてき
てはいないが。確と血?が反応してしまう。あと”「たてまえ」で生きている時
代”とあったが、そうだよな。そういう時代からよくここ(現代)まで来たよな、と
思った。後ろ髪を引かれながら人が自由になる。
私はそんな風に生きてきてはいないが。って書いたが、思い出してみたら、あっ
た。殴られるとかじゃないが、悪いことしたら叩かれたり異常な剣幕で怒られたり
した。悪いこと、というのは親にとっての悪いこと、であり倫理的人間的に悪いこ
と、ではなかった気がする。「ちゃんと」という基準(規準?)だった気がする。
ちゃんとみんなでご飯を食べる、とか。(私は団欒が嫌いであった。4人家族が正
方形のテーブルに座って朝ドラ見る、みたいな。)
「ちゃんと」って何処から来てるんだろうと思っていたがやっぱ戦中戦後なのだ
うか。当時の強迫観念のようなもの(当時ほどの濃度ではないにしても)と暴力
(当時ほどの濃度ではないにしても)があわさってスリコミみたいになって今も
残っている。