発症できない
「戸建て」に生まれて習い事を有無を言わさずさせられていた世代なのだが、(戸建てだったら皆が皆そうということもないと思うが、そういう傾向があるのではないかという話で。)少女くらいの時期に「病的に大人びる」ということを却下される、安心安全だからしねない、それが忌々しくて白々しくて嫌だった。いかにも守られて育てられて何事もなく身綺麗で円満です、っていうのをまとわされるような。
実際は己の毒が「症」として排出されない、形にならない、その苦しみに名前がつかない、なので回路が手に負えないほど複雑になって「成長期」が長引いてしまった。自分をなぐりつけるようなことをしないと何かを経験した気になれなかった。なので自分にとってあえて過酷なことをやったりしていた。それで蓄積された放射・修羅を解放していたのかも知れない。今思うと。解放できない部分は村上春樹の小説に助けてもらっていたと思う。水銀を飲んで水銀を出すみたいな意味で。
「うらやましい」ってよく言われていたけど、困窮がテーマだったり自己がテーマだったり苦しみは人それぞれ違う。
実家の部屋からは春には桜と梅が見えるのだが、長い事それに気付きもしなかった。外を見る余裕の一寸もない生き方をしていた。
詰み@田舎
私は内向型なのだが、昔(私の親の世代)は外向型のキャラクターであることが正常のように思っている人達が結構いた。そう思っている人たちから内向型というのは外向型になる途中過程などと思われていて嫌だった。一人で居たいと思っても、「人間関係大事だから友達作れ」の一点張りだった。当時の私が他人と居て感じるのはストレスか退屈だった。一番思っていたのは「休みたい」。(年取って判ったのは「同世代と合わない」ということだった。でも20代の時点で10代と気が合う、ってなかなか分からないと思う。)
あといわゆるモラトリアム期に何かしら模索してると「自分探しw」と嘲笑されたり、あと「”ちゃんとした”仕事に就きなさい」ととにかく言われ続けてきた。昭和生まれ昭和育ちの人にとっては自分の子供にそういう言い方するのは義務みたいなところがあったと思うのでしょうがないと思うしかないのだが。
今ほどメディアが盛んじゃない時代に、『置かれた場所で咲きなさい』という本が流行って、本当に活路が閉ざされた気がして鬱屈感ハンパなかった。(この本が言ってることと、私がその時早合点でタイトルだけ見て思ったことは違ってると思うのだが。)基本、置かれた場所の方が合ってる人もいれば合ってない人もいる。いろんな人がいるってことをわかってほしかった。
最終的にはもう自分の皮をはぎたいくらい、家燃やしたいくらい、強烈な反逆心が沸騰していた(←過激)。ひとり暮らしする自信もなかったが、もう自信とか言ってられない、このままここに居たらやばい人になってしまうと思いとにかく上京した。
疲れているときの人混みはしんどいが(よく前から来た人と同方向に避けてしまっていた)、都会の喧騒の放っている巨大な電気信号的なものに高揚感を覚えたりもした。洗練された複合商業施設とか人のキレとか好きだった。
その後田舎に帰ってきたら、田舎って自然がいっぱいでいいよね、鳥はたくさんいるし雨の音はきれいだし、と「鬱屈」を取り除いた田舎の姿が見えだした。
それからしばらく経って、村田沙耶香さんの小説とレンタルなんもしない人さんの活動を知ったときに、世の中の変容を感じることができた。
塔の窓(2022.8記録)
私の最初は外界と交流できなかった。草花とか動物とか他人に興味持てなかった。世界に自分の思念しかなかった。しょうこう閉じてるというかもしくは顕在している部分がなく地下に埋まっているみたいな。頭の上で人が歩いているという感覚。(でも時々奇跡的にひらけることもある。)自分はどういうわけかそっちに行けない。自分がこの世にしかと生きている感覚を持てなかった。私を繋いでいたのは主に虚構だった。1日の間に目覚めることもなく夜が来て眠らなくてはならないのが無念だった。
それが基本的にあってそこに自分の猛悪問題とかコンフューズとかコンプレックスとかが絡まり合ってどうにもできなかった。
最近それらが取り外れて自由になった。こんなに何にひらいてもいいんだなと思った。本当にやっと色が見えだした時、でした。
塞ぐ (便秘と歯痛のことなど)
「便秘」と「歯痛」と「腰痛」は当事者じゃない限りその苦痛は軽んじられている傾向にある気がしてならない。(腰痛は未経験だが。)
悲しいとき、というか泣いてるときの体と、便秘のときの体って似てるな、と気づいた。(便秘の度合いにもよる。)たぶんセロトニンがどうとかそういうことなんだろうけど。
便秘のときに飯を食うというのは、嗚咽しながら嚥下をするようなものなので、難易度Bである。実際に泣いているときというのは、泣くに至るレベルの感情に満たされているので、そのときの体を意識するということはないのだが、便秘のときはその感情に満たされているという状態ではないので、体の辛さというのが直にわかる。泣いてる体というのは結構体にストレスがかかっているとわかった。
あとこれもセロトニン云々だと思うが、不腸時(←造語)ってやや感覚過敏になっていて、音が骨まで響いて来るようでたまらないし、光を見ると目が痛い。自然光より電気の光が特に。行灯なんかが欲しくなる。
便秘は腸が詰まるのでガスが抜けずたまっていくわけだが、私はいわゆる精神的苦痛のタイプも傷つく、とかよりは暴発(爆発ではない)しそう、という感じで、体と精神の苦痛スタイルが同じってか、などと思った。
私は歯医者によく世話になるのだが、ここで気づいたのが、私は痛みには強いが苦しさには弱いということだ。
虫歯の治療をする頃には大抵神経まで菌がいっちゃってることが多いのだが、痛みというのは無感覚ゾーンみたいのをその中に見つけることでダマシダマシみたいなことをすることができるが、ずっと口を開けていなくてはいけないとかそういう(息)苦しさとかのがストレスがすごい。苦しいというのはとにかく苦しい。苦しさというのは感覚に回避スポットみたいのが無いような気がする。
基本、人の声が聞こえすぎる。その時のコンディションにもよるが。微細な音でも拾ってしまうっていう意味ではなく、たとえば音楽においては音質には鋭くないが、声で言ってることの出処というかその場面というかそういうものが直に入ってくる。それで、音楽ならいつ聴くか、誰のを聴くかって選べるけど、不意に入ってくる不特定の声の情報量がすごく多いと気づいた。
感情100%のせて喋るタイプの人とその声が苦手。神経を逆撫でされる様というか。自分の体が緘黙的だからすぐさま発露できるひとへの羨望もあるのかもしれないが。
村上春樹
レコード
10年前のひとり暮らし
私が「人心地がついた」のはつい最近のことだ。
家のドアを開けたら■される気がしたもので、
今から10年前、ひとり暮らしをしていた。
都市部に近い郊外に住んでいた。
引っ越してしばらくはまだ実家に「あっちの私」
やけっぱちではじめたひとり暮らしだったが、再現可能の範囲でど
さらに、くわしいところははしょるがイロイロあって(